冷泉家と土の蔵

冷泉家代々の当主は、蔵番であります。家の土蔵を守り伝える番人なのです。

家祖である為相が、鎌倉時代の中頃に、父為家からたくさんの歌学書や歌集などの典籍類、つまり、俊成や定家などが記したり書き写したりしたものを譲り受けて以来、それを守り伝えることこそが、冷泉の当主に課せられた重要な役務のひとつ。そして、それらの(今では、国宝や重要文化財に指定されるものを含む)文化財を保存継承するために、なくてはならないのが収蔵する土蔵なのです。冷泉家の蔵には、藤原俊成による「古来風躰抄」やその子定家による「古今和歌集」「明月記」などの国宝の他、多くの私家集、日本文化を知る上で欠かすことの出来ない貴重な古典籍や古文書、歌会始や七夕の乞巧奠といった行事や儀式に必要な道具類などが収められています。いずれも日本文化の原点とも言い得る京の公家文化の結晶。800年を越えて伝えられてきた日本史の証人でもあるのです。

冷泉家が現在の地にその屋敷を定めたのは、江戸時代の初め、慶長11(1606)年のこと。この屋敷は、天明の大火(1788年)で焼失した後、寛政2(1790)年に再建されたのですが、記録によると、特に重要な書物を収めている蔵(「御文庫」)は、この大火の時も焼失を免れ、収蔵品を守り抜いたのです。つまり、現存する冷泉家の蔵は、少なくとも400年の長きにわたって、日本が決して失うことのできない歴史を守り伝えてきたのです。

冷泉家にとってその蔵は神聖なもの。特に御文庫と呼ばれる蔵は神殿です。この蔵の扉が開くのは一年に一回だけ。手水での潔斎を済ませた当主が新年を迎える儀式の準備を成すときだけです。年が明ければ、家人は皆、装束を改め、門松が立てられた御文庫の前で柏手を打って初詣をします。冷泉家の土蔵は、このように「神宿る蔵」であるからこそ、何世紀にもわたって守られつづけてきました。その存在は、日本の歴史、日本の文化にとっても、まさに「神殿」と言い得るものなのです。