お盆
今回は、財団ではなく冷泉家での出来事をご紹介いたします。
お盆休み初日、冷泉家代々のお墓参りに行きました。と言っても、今回はお墓が判明している近世以降の人の分だけです。それでも50基ほどのお墓を順番にお参りします。
お墓のある場所は、左京区吉田山の喜運院と、上京区にある上善寺です。
猛暑日
午後2時、その日の気温は37度。文句なしの猛暑日です。お墓参りにはふさわしくない格好かもしれませんが、少しでも涼しく、動きやすい服装で臨みます。もちろん、日焼け対策も忘れてはいけません。
まずは喜運院に向かいました。お寺様へのご挨拶を済ませ、墓地へと向かいます。容赦なく降り注ぐ太陽光線。途中の階段の手すりも熱く焼けています。
大量のお墓と、水と、樒
仏花とお水を準備します。ここでは樒(しきみ)と言う草を用いる慣わしです。樒は、モクレン科の常緑小高木です。樒は全体に強い香気を持っているので抹香や線香の原料になるほか、幹は数珠の材料にも使われます。日本へは奈良時代に鑑真がもたらしたとされており、仏教とは大変関係の深い植物です。
カゴいっぱいの樒の束と、バケツに2つの水を持って、いざ、スタートです。
他家の墓も多く立ち並ぶ墓地の中、当家所縁の墓を見つけ出して順番に水をかけ、お供えをして拝みます。所縁のある墓がすべて隣接しているわけでは無いので、墓地の中を行ったり来たりして探しながらの作業です。数が多い上に、熱せられた墓石にかけた水はすぐに蒸発してしまうので、すぐに水が無くなり、何度も水汲みに戻ります。
墓に手を合わせる冷泉夫妻
かつては一人分ずつ墓を建立していましたので、その数は膨大です。これではこの先ますます大変だからと祖父母(第24代)の時に、「冷泉家の墓」を建立し、一つにまとめることになりました。
それ以前のお墓には、氏族名である「藤原」がつきます。「冷泉」の名字は表記されません。代わりに正式な姓(かばね)である「朝臣」がつきます。例えば、第22代為系(ためつぎ)では、「藤原朝臣為系(ふじわらのあそんためつぎ)」となり、これに位階、勲等、爵位などを加えて、「従二位勲六等伯爵藤原朝臣為系卿墓(じゅにいくんろくとうはくしゃくふじわらのあそんためつぎきょうのはか)」としています。この隣には妻・恭子(ゆきこ)の墓が並んでおり、そちらは「藤原朝臣恭子墓」と刻印されています。
水場との間を何度も往復し、カゴの中の樒が無くなった時には、汗でびっしょり、喉はカラカラになっていました。ですが、まだもう一か所残っています。力を振り絞って、上善寺に向かいます。
新出のお墓
上善寺でも同様に、お寺様へのご挨拶の後、樒と水を持って次々とお参りをします。こちらにも十基以上の墓があるのですが、近年、新たに所縁のお墓が発見されました。
どなたのお墓なのかはまだわかりませんが、墓に彫られた戒名と寺の記録が一致したので、所縁の人物のものであることは間違いありません。
こうして、お墓は少しずつ増えていきます。江戸以降の先祖の分だけでもこうした具合ですから、もっと昔の方々のお墓は分からないことだらけです。
遠い記憶
汗をかいてお墓参りをすると、祖父が亡くなった時のことを思い出します。冷泉家第24代当主・祖父為任(ためとう)は7月8日、夏真っ盛りの時に亡くなりました。
お葬式は冷泉家邸内で行われました。当時5歳だった私は、神妙な面持ちで集まる弔問客を迎え、いつもとは違う雰囲気に圧倒されていました。上の間に神棚を設えての、神式の葬祭です。装束を身に着けた神主が恭しく祭詞をあげる姿も重苦しく目に映りました。
多くの大人たちが参列する中、7歳の姉、5歳の私や、まだ2歳に満たない弟を含む孫たちが最前列に座り、式の間、じっと耐えていました。普段とは違う息苦しさ、背中に刺さる大人たちの気配に、小さな自分の肩では耐えきれないような重荷を感じたことを、何より印象深く覚えています。同時に、自分の置かれている立場を察した瞬間であったように思います。
あまりの暑さに、遠い記憶を思い出した頃、やっとすべてのお墓にお参りし終えました。気づくとあたりはすでに夕方、西日が強く照りつけます。朦朧とした頭を抱えながら、夏の一大イベントの幕が閉じました。
この記事を書いた人
野村渚
学芸課長 第24代当主為任・布美子の次女久実子の次女。
ここでの勤務はまだ1年のひよっ子。
子供の頃からの耳年増で、なんとか日々をしのいでいます。