夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ
清原深養父
この和歌もまた百人一首にも採られているとても有名な一首。夏の夜の豊かなひとときを詠んだ涼しげな歌です。日本の夏は、夜が豊かな季節です。幼い頃、夏になると夜は寝具を包むように蚊帳が吊られていて、子供たちはその中に入るのが楽しみでした。蚊や虫が入らないように、さっと入って蚊帳の中に収まる。時には、吊られたその蚊帳の中に蛍を放して遊びました。灯りを消すと、蚊帳の中を蛍火が飛び交う。蚊帳の中を涼しい夜の風が通り抜けます。豊かで涼やかな夏の夜。今ではもう、想い出の中にしかないのかもしれないけれど・・・。
さて、では、この和歌を読んでみましょう。宵というのは夜の入口のこと。日が暮れてから間もない時を指します。まだ宵なのに、もう夜が明けてゆく。それほどに夏の夜はとても短い。そもそも、昔の日本人の季節感というのは、暑い寒いといった気温ではなく、陽(日照時間や夜間)の長さで感じるものでした。日没が早まり、夕刻が長くなると秋を感じ、冬の到来は夜の長さが知らせるもの。日の出が早くなり、陽が少しずつ長くなり始めると、人々は春の到来を感じます。そして夏が来る。春よりもずっと長い陽があって、日が沈むと間もなく朝が来る。つまり夜はぐっと短くなる。夏というのは夜が短い季節なのです。だから夜が豊かで濃い。それが日本の夏。枕草子にも「夏は夜」とありますよね。夜があまりに短いので、月も困惑しています。まだ空にあるうちに明るくなってしまい、山の端、西の端に入る前に朝になる。雲のどこかに宿を取って休むしかありません。あっという間に夜が明けて月はいったいどこに宿を取っているのだろうか、というのがこの歌です。
和歌の中では、夏の月はいつも涼しげなものです。春の月は朧に輝き、秋の月は澄み、冬の月は冴え渡る。日本の夏は涼しげな月が輝く季節なのです。現実の世界では、夏にだって朧月が出ることはあるのでしょうが、日常の実際がどうであれ、和歌の中での夏の月は涼しいもの。夏の月が詠まれれば、涼しげな美がそこにある。現実を写し取るのではなく、和歌としての言葉の中に美が創り出されるのです。言の葉がまずある、とでも申しましょうか。人々それぞれの現実の中ではなく、皆が共有する言葉の中に日本の美がある。和歌の面白さも難しさもそこにこそあるのですが、明治以降の自己主張の創作を学び、共通の型を捨て去ってしまった現代人にとっては、ちょっと厄介なことですね・・・。
ともあれ、夏の月は涼しげです。月に限らず、日本の夏はともかく涼しさがいちばん大切。真夏になってビーチで波と戯れる。燦々と輝く太陽の陽を浴びて真っ黒に日焼けする。暑い夏こそが楽しい、などという感覚は新たに育まれた現代のものです。それもまた良いかとも思いますが、元々の日本の夏の美は涼しさの中にこそ存在するもの。京都では今でも、障子を簀戸に換え、簾を吊り、葦簀を立て、畳の上に藤筵を敷く夏支度が見られます。打ち水に濡れた苔。手水鉢から流れる水。風鈴や団扇や金魚。日本の夏は、とにかく涼しげであることが大切なのです。そうでなければ、この季節は過ごせない。兼好法師も徒然草に書いています。「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり。深き水は、涼しげなし。浅くて流れたる、遥に涼し。(徒然草55段)」。夏を涼しく過ごすことは本当に重要なことだった。ですから、夏は涼しい夜を楽しむ。時には、明け方まで眠らずにいて、涼しげな夏の月が雲間に隠れるのを眺めながらめぐる季節を楽しんでいたのでしょう。(第19歌・了)
清原深養父[きよはらのふかやぶ]
平安時代中期の歌人・貴族。官位は従五位下・内蔵大允。後撰集の撰者元輔の祖父。清少納言の曾祖父。晩年は、洛北の北岩倉に補陀落寺を建てて住んだとの伝がある。寛平御時中宮歌合・宇多院歌合などに出詠。紀貫之・凡河内躬恒・藤原兼輔らと親交があった。古今集に十七首入集。勅撰入集四十二首。家集『深養父集』がある。中古三十六歌仙の一人。小倉百人一首にも歌を採られている。琴の名手であり『後撰集』には清原深養父が琴を弾くのを聴きながら、藤原兼輔と紀貫之が詠んだという歌が収められている。これもまた夏の夜の和歌である。
短か夜のふけゆくままに高砂の峰の松風吹くかとぞ聞く 兼輔
葦引の山下水はゆきかよひ琴の音にさへながるべらなり 貫之
プロフィール
冷泉貴実子
事務局長 第24代当主為任・布美子の長女。
趣味は海外旅行と絵を描くこと。
陽気で活発な性格で、仕事に、遊びに、イベントにいつも大忙しです!
田中康嗣(たなかこうじ)
特定非営利活動法人 和塾 理事長。
大手広告代理店にて数々の広告やブランディングに携わった後、和の魅力に目覚め和塾を設立。
日本の伝統文化や芸術の発展的継承に寄与する様々な事業を行っています。詳しいプロフィールはこちらから。