文庫だより冷泉貴実子
やまと歌がたり

冷泉貴実子
やまと歌がたり
第十歌

聞き書き・田中康嗣

小山田に 引くしめなはの うちはへて 朽ちやしぬらむ 五月雨のころ
藤原良経

棚田の景色というのは、なんだか長閑(のどか)で心地よいものですね。「日本の原風景」などと言われることもあり、日本各地で目にすることができます。農林水産省が選定した日本の棚田百選などもありますね。けれど、機械化が進むと棚田は不利ですから、どんどんなくなっている。こころ安まる安穏な景色が、この国から消えてゆくのは淋しいことです。

近世までは、稲作はほとんどがこの棚田で行われていました。灌漑や排水をするためには、ある程度の傾斜が必要だったので、高低差の少ない平野で稲を育てるのは難しかったのです。稲を育てるために水の管理はとても重要で、灌水や落水(収穫前の水抜き)がうまくいかないと良い米を収穫できないどころか、田の稲が全滅するようなこともあるようです。ですから、灌漑技術が未熟な頃は、平野での稲作はできなかった。広く大きな水田は江戸時代以降のことです。この和歌の作者、良経さんの頃も田圃と言えばもちろん山田つまり棚田。ですから、初句の「小山田に」は、都の近郊に広がる美しい棚田の景色のことです。その田のまわりに注連縄が張り巡らされています。「うちはへて」というのは、ぐるりと長く張り巡らした様子です。きっと田植祭が行われた後なのでしょう。秋の豊作を祈願する神事や祭事は、古くから日本中で行われていました。その形式は地域によってさまざまですが、今でも、千葉の香取神社や大阪の住吉大社などでご覧になることができますよ。注連縄を張り、躑躅(つつじ)の花を供えたり。神楽を舞ったり。後の能楽に連なる田楽は、この田植祭で行われた芸能。稲作というのは、いろいろな意味で、日本を型つくってきたものなのですね。

田植えというのは、梅雨時、つまり夏の盛りの行事です。苗代で籾種を育てた早苗を早乙女たちが田に植える。たわわに実った秋の稲穂を見据える美しい夏の景色ですね。けれど、梅雨ですからシトシトと雨が降りつづけています。ですから、張り巡らした注連縄は、雨に濡れて朽ちているのではないでしょうか。「朽ちやしぬらん」というのです。五月雨というのが、まさに梅雨の雨のこと。旧暦の五月に降る長雨のことです。都会に住み暮らしていると、長雨というのはとても鬱陶しいものかもしれませんが、稲作、田植えのことを考えると、それはまさに恵みの雨。この時期に雨が降ってこそ、ご飯が食べられる。空梅雨で晴天がつづく方が困りますから。注連縄が朽ちるほど降り続けて欲しい。それが田植えの候の長雨。稲を育て秋の豊作につながり、人々の豊かで平穏な生活を支えてくれる雨、つまり慈雨なのです。この和歌は、長々とつづく棚田の中、長く張り巡らされた注連縄に、長く降り続く五月雨が降り注ぎ、五穀豊穣、天下泰平が永くつづくことを祈って詠んだ歌なのです。新古今和歌集の詞書(ことばがき)には、「釈阿、九十賀たまはせ侍りし時、屏風に五月雨」とあります。俊成さんの90歳のお祝いの時に詠まれた和歌なのです。長寿を寿ぐ素敵な和歌ですね。

これは、とても日本的な和歌です。田植えのことを詠んでいるのですが労働歌ではない。日本には、杣人(そまびと)つまり樵夫(きこり)の歌や炭焼きの歌、潮汲みの歌など、仕事を組み込んだ歌はたくさんあります。けれど、それらは皆、労働を含む景色を詠んでいるのです。労働そのものの喜びを歌うのではなく、それを美しい景色として詩歌にしている。美しい景色ですから、労働を卑下しているわけではなく、苦役としているわけでもない。むしろその尊さを賛美しているような。牧歌的でのんびり暢気な、平和で平穏な、豊饒で幸福な労働の景色。詠む人と働く人の間にある連帯感や共感のようなものが読み取れる不思議な歌なのです。外国の労働歌とは大きく異なるいかにも日本的な歌と言えるでしょう。(第十歌・了)

藤原良経[ふじわらのよしつね]嘉応1(1169)年〜元久3(1206)年
平安末〜鎌倉初期の公卿、書家、歌人。藤原忠通の孫で九条兼実の子。従一位摂政太政大臣に至り、後京極摂政、中御門殿と称された。慈円は叔父。和歌を藤原俊成に学び、その子定家を後援。御子左家と強く結びついた歌壇活動を展開。建仁元年の和歌所設置に際しては寄人筆頭に。新古今和歌集撰集にも関わり、仮名序を執筆し、巻頭歌作者となっている。新古今集の収録歌数は79首で、西行・慈円に次ぎ第三位。勅撰入集計320首。書にもすぐれた才能を発揮し、後京極流の祖でもある。佐竹本三十六歌仙切や紫式部日記絵巻詞書などにその筆跡を残している。
み吉野は山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり(新古1)
山とほき門田の末は霧はれて穂波にしづむ有明の月(続拾遺327)


プロフィール

冷泉貴実子

事務局長 第24代当主為任・布美子の長女。
趣味は海外旅行と絵を描くこと。
陽気で活発な性格で、仕事に、遊びに、イベントにいつも大忙しです!

田中康嗣

特定非営利活動法人 和塾 代表理事。
大手広告代理店にて数々の広告やブランディングに携わった後、和の魅力に目覚め和塾を設立。
日本の伝統文化や芸術の発展的継承に寄与する様々な事業を行っています。詳しいプロフィールはこちらから。

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