文庫だより冷泉貴実子
やまと歌がたり

冷泉貴実子
やまと歌がたり
第八歌

聞き書き・田中康嗣

うちしめり 菖蒲ぞかをる ほととぎす 鳴くや五月の 雨の夕暮れ
藤原良経

梅雨というのは嫌な季節ですね。軒が朽ちてしまうほどの長雨の日々。昔はこの季節に病気が蔓延するようなことが多かった。温度も湿度も高い、ジメジメ、じとじとした鬱陶しい季候で、食べものも腐りやすく、蠅や蚊が伝染病を運んでくる。五月に降る雨、五月雨の頃は、どこか気持ちが沈んでしまうような季節なのです。昔も今もそうですね。けれど、その最悪な季節の中にも美を見いだすのが日本人。この歌にはそんな不思議な美が潜んでいるのです。

初句「うちしめり」の「うち」は接頭語。後の言葉を少し強調しています。部屋の中がじっとりと湿っている。そこに「菖蒲ぞかをる」です。ここで読まれている菖蒲は、今みなさんがアヤメとかショウブと読んでいる植物とは異なります。よく知られている綺麗な花を咲かせるのはハナショウブという植物で、アヤメ科に属しています。この歌に詠まれるアヤメは、サトイモ科です。ちょっとややこしいですね。菖蒲湯などに使われる薬草としてのアヤメは、花の姿もまったく異なるアヤメのことで、花菖蒲に対して根菖蒲と呼ばれることもあります。根が生薬になる。そして根から強い芳香が生じます。病がはやりがちな五月。人々はこの薬草を屋根に葺いたり軒に吊すなどして病気を遠ざけようとしました。根菖蒲とお灸にも使う蓬(よもぎ)を袋に入れて吊します。これを薬玉(くすだま)と呼びます。お祝いの時に割るくす玉の原型ですね。ですから「菖蒲ぞかをる」というのは、軒に吊された薬玉から根菖蒲の芳香が漂ってきている、ということ。この歌はここで切れています。二句切れの歌です。

日本の夏といえば、卯の花とほととぎす、という話しをしましたね。昔の人は、ほととぎすの声を聞けば夏を感じた。春は鶯、夏ほととぎす、秋は雁。古今集の夏歌には三十からの郭公(ほととぎす、和歌の題としてはこの字を使います)を詠み込んだ歌が並んでいます。折口信夫という民俗学者が「歌の話」という本の中でこの和歌を、類例のないほど良いものだ、と絶賛しているのですが、その中で折口さんは、この歌では「ほととぎす鳴くや」の部分は、その後の「五月」を導き出す一種の枕詞のようなものだといっています。つまり、この時、ほととぎすは実際鳴いているわけではない、と。そうかもしれません。和歌の中では、ほととぎすが鳴くのはたいてい明け方のことですから、「夕暮れ」時は少し早いのかも知れませんね。そうしてこの歌は、「五月の雨の夕暮れ」で四句、結句となります。五月雨の降りしきる蒸し蒸しして少し陰鬱な梅雨の夕刻です。源氏物語の帚木に雨夜の品定めという話しがありますよね。光源氏と頭中将らが五月雨降る季節に部屋に籠もって何やかやと話し合っている。良経の歌は、この源氏物語の雨夜の品定めの世界観と通じるところがあるように思います。どこかひんやりした、しっとりと濡れたような、誰そ彼時(黄昏時)の明るくはないけれど暗くもない時間が流れている。雨音が静かに聞こえ、菖蒲の香りが漂っています。美しい日本の時間のひとつだと思います。奇跡的で不思議な美がそこに潜んでいるのです。

冷泉の家では旧暦の五月、端午の節句が近づくと上の間の床に大将人形を祀ります。その前に虎やお供の人形を飾り、その手前左右に家紋の酢漿草(かたばみ)の入った紅白の幟(のぼり)をたくさん立てます。そしてその幟の先に、紙でつくった菖蒲と蓬を取り付けるのです。雨の降るしっとり湿った夕刻になると、その紙の菖蒲からの香り(紙でつくったものですから本当は薫るはずもないのです)が、部屋の中を漂っているかのような気持ちになるものです。(第八歌・了)

藤原良経[ふじわらのよしつね]嘉応1(1169)年〜元久3(1206)年
平安末〜鎌倉初期の公卿、書家、歌人。藤原忠通の孫で九条兼実の子。従一位摂政太政大臣に至り、後京極摂政、中御門殿と称された。慈円は叔父。和歌を藤原俊成に学び、その子定家を後援。御子左家と強く結びついた歌壇活動を展開。建仁元年の和歌所設置に際しては寄人筆頭に。新古今和歌集撰集にも関わり、仮名序を執筆し、巻頭歌作者となっている。新古今集の収録歌数は79首で、西行・慈円に次ぎ第三位。勅撰入集計320首。書にもすぐれた才能を発揮し、後京極流の祖でもある。佐竹本三十六歌仙切や紫式部日記絵巻詞書などにその筆跡を残している。
み吉野は山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり(新古1)
山とほき門田の末は霧はれて穂波にしづむ有明の月(続拾遺327)


プロフィール

冷泉貴実子

事務局長 第24代当主為任・布美子の長女。
趣味は海外旅行と絵を描くこと。
陽気で活発な性格で、仕事に、遊びに、イベントにいつも大忙しです!

田中康嗣

特定非営利活動法人 和塾 代表理事。
大手広告代理店にて数々の広告やブランディングに携わった後、和の魅力に目覚め和塾を設立。
日本の伝統文化や芸術の発展的継承に寄与する様々な事業を行っています。詳しいプロフィールはこちらから。

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