文庫だより冷泉貴実子
やまと歌がたり

冷泉貴実子
やまと歌がたり
第十七歌

聞き書き・田中康嗣
写真提供:公文健太郎

早苗とる 山田の懸樋 漏りにけり 引くしめ縄に 露ぞこぼるる
源経信

私の人生のカルチャーショックといえば、いささかおかしなことですが、主人の実家、つまり見渡す限りの田圃に囲まれた日本の農村でのこと。パリやロンドンに出掛けて経験するカルチャーショックよりずっと心に沁みる体験でした。

主人の実家は播州平野の真っ只中。ここは昔の播磨国の主要部分を占めていて、瀬戸内海の播磨灘に面し、東部は、印南野(いなみの)台地と呼ばれるなだらかな河岸段丘。ため池がたくさんあってまわりはほとんど全部稲田でした。この辺りは、古くから醸造米の産地として知られています。酒所として有名な灘がすぐ近くにありますから。吟醸酒の元となる酒造好適米としてもっとも有名な山田錦の発祥の地は、播州平野の北端にある美嚢地区(現三木市)といわれています。結婚してからは、その主人の実家にたびたび出掛けるようになり、そこでの暮らしを垣間見るにつけ、それまでの自分の日常とのあまりの違いに驚きました。和歌に詠まれた田園の風情と、実際の農村での営みは、頭では分かっているつもりでしたが、随分違うもの。例えば、稲作では水の配分がことのほか重要なことで、それを決めてゆくことは集落のすべてのひとに関わる一大事。ですから、物事はかつて農地委員会と呼ばれた組織や戸主会などが話し合いで進めるのですが、濃密な人間関係の中で、それぞれの生活に直結するような重要事を定めてゆくのは、都会に住む公家の末裔にとっては想像を絶するようなことです。時には、誰かの田を犠牲にして皆の田を守る、というような厳しい決断も必要なようで、そうしたことを知れば知るほど、カルチャーショックが積み重なる。どんなことでも、頭で考えるだけではなく、実際に行ってみる、やってみることは大切なことなのですね。

とはいえ、稲田がつづく播州平野の景色は、それでも尚、とても美しいものです。ことに、田植えを終えた頃の眺めは、殊の外素晴らしい。田圃の景観は、自然そのものではなく、人間の手が入った人工の美。これこそが人間が関わる文化的美観です。日本の田園風景は、それこそ世界文化遺産に登録していただきたいほどの地球美だと思います。

今回の和歌は、その稲田の景色の尊い美を詠んだもの。稲作ではまず苗代に種籾を蒔き、苗が育つとそれを抜き取り、本田に移して田植えをします。「早苗とる」というのは、苗代から早苗を抜き取ること。その苗代のある棚田に「懸樋(かけひ)」があります。懸樋というのは、稲作でもっとも大切な水を引くために竹でつくった樋(とい)です。その樋から綺麗な水が「漏れにけり」つまり溢れ出ています。神聖な稲田のまわりには、注連縄が張り巡らされていて、懸樋から漏れた水が美しい露となってその注連縄の上に載り、縄のたわみで滑り落ちながら、キラキラと輝いています。「引くしめ縄に露ぞこぼるる」です。山田つまり棚田の景色を背景に、美しい早苗の緑と清涼な水が織り成す日本の夏の風景です。汚れのない清浄な景観が目に浮かぶようですね。

源経信には春の田を詠んだ「あら小田に 細谷川をまかすれば ひく注連縄に もりつつぞゆく」という歌もあります。経信さんも、日本の田園風景に魅せられていたのでしょうね。最近、米不足が話題になっています。日本の稲作は今、大きな問題を抱えているように思います。主人の出身地である播州平野でも、農家の跡取り問題が顕在化し、農地の集約化や大規模農業化が課題となっているよう。山田や小田が織り成す日本の田園風景は、この先どうなってしまうのでしょうか。原風景を失ってしまうようなことは決してあってはならないことだと思うのですが、この問題を解決するのは本当に厄介なことです。たくさんの和歌に詠まれる日本美の代表とも言い得るこの田園の景観、守っていかねばならないと思います。(第17歌・了)

源 経信[みなもと の つねのぶ]
平安時代後期の公家・歌人。宇多源氏、権中納言・源道方の六男。官位は正二位・大納言。桂に別業を営んだことから桂大納言と号される。小倉百人一首では大納言経信。博学多才で、詩歌管弦、特に琵琶にすぐれ、有職故実にも通じた。そのため、藤原公任きんとうと並んで三舟の才と称された。晩年の堀河天皇代には歌壇の重鎮として、嘉保元年(1094)の関白師実歌合などの判者を務めた。歌論書『難後拾遺』の作者とされる。他撰の家集『経信集』がある。後拾遺集初出、勅撰入集は八十六首。
ふるさとの花の盛りは過ぎぬれど面影さらぬ春の空かな(新古148)
よろづ代にかはらぬものは五月雨のしづくにかをる菖蒲なりけり(金葉128)
月影のすみわたるかな天の原雲吹きはらふ夜はの嵐に(新古411)
夕されば門田の稲葉おとづれて芦のまろ屋に秋風ぞ吹く(金葉173)



プロフィール

冷泉貴実子

事務局長 第24代当主為任・布美子の長女。
趣味は海外旅行と絵を描くこと。
陽気で活発な性格で、仕事に、遊びに、イベントにいつも大忙しです!

田中康嗣(たなかこうじ)

特定非営利活動法人 和塾 理事長。
大手広告代理店にて数々の広告やブランディングに携わった後、和の魅力に目覚め和塾を設立。
日本の伝統文化や芸術の発展的継承に寄与する様々な事業を行っています。詳しいプロフィールはこちらから。

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