文庫だより玄武町余聞

和歌の伝統と日本人らしさ

・無意識にわかること

数年前、京都の繁華街を走るタクシーの中で、運転手さんと次のような会話をしました。

  「最近、日本人、外国人を問わず着物を着た観光客が多いですね。」

運転手「でも、どの方が日本人で、どの方がそうでないか、何となくわかりまっしゃろ?」

その発言に私は少し面喰いましたが、そう言われると確かにその通りです。車内から眺めるだけでも何となくご出身の想像がつきます(偏見であり、正解しているかどうかわかりませんが)。

いわゆるお国柄は、着物の色や柄の選び方、合わせ方、立ち振る舞いに表現されるのかと思います。日本人らしい色合いや、当たり前と思っている着方が出来ているかどうかで、日本人か、そうでないかを見極めているのでしょう。

では、我々はその「日本人らしさ」をどうやって獲得したのでしょうか。本稿では、この何気ない会話から生まれた疑問について、素人ながら思うことを書き連ねたいと思います。なんの根拠も無い意見に過ぎませんので、そのおつもりでご覧いただければ幸いです。

・意識の共有

国という言葉を辞書でひくと、①一つの政府に治められている地域。②地域。地方 というふうに、土地と政府にかかわる説明がなされるばかりでした。しかしここで問題としている「日本人らしさ」を紐解くカギは、定義的な国ではなく、「何となく」私たちが持っている文化的価値観の共有が根底にあると考えられます。

例えば、「ふるさと」と言う歌があります。「兎追いしかの山~」で始まる、誰もが知っている唱歌です。歌詞の続きを見ていきます。

「兎追いしかの山 小鮒釣りし 彼の川 夢は今も巡りて 忘れ難き 故郷」

自然と頭に情景が浮かび、郷愁にかられます。ですが今の時代、実際に山で兎を追い、小鮒を釣った経験がある人がどれだけいるのでしょうか。ほとんどいないと思います。ですが、我々日本人はこの曲を聴いて、故郷を思い浮かべ温かい気持ちになるのです。

これは生育の過程で経験した事例や環境に基づく刷り込みによるものと考えられます。この刷り込みによって、我々は見たことのない情景を思い浮かべ、自分の故郷であるかのように勘違いしているのだと思います。

想像する「ふるさと」が同じことにより、同族意識が生まれ、同族が共有する団体=国家、その国らしさだと認識しているのではないでしょうか。

・環境への適正

歌唱「ふるさと」に見える情景は、かつての実際の日本の景色にマッチングするものです。よく言われるように、日本の景観は火山が多く険しい山、澄んだ水が流れる川は急流で、その川が流れ込む海も近く、四季折々の穏やかに変化する気候を特徴としています。こうした環境下で生まれ育った日本人は、当然ながらその風土に適したものを好み、文化を育んできました。

・漢詩文から仮名文学へ

ここで文字の話に移ります。そもそも日本の文字は、中国から来た大陸文化、漢字の文化を元にしています。日本で漢字が使用されるようになった確かな記録は8世紀頃、それまで口承の中で伝えられてきた神々の伝承や説話が、『日本書紀』や『古事記』『万葉集』などによって文学化されました。

平安時代(9世紀初頭)に入り、漢字を簡略化した平仮名が生まれます。しかし最初期には『凌雲集』など3つの勅撰漢詩集が編纂されるなど、時代はまだ漢詩文を主体としていました。

9世紀中頃には、小野篁のように漢詩・漢文とともに和歌もよくする人物が登場し、時代の気運は次第に国風文化尊重へと変わっていきました。在原業平、僧正偏昭、小野小町ら六歌仙の活躍する時代を経て、10世紀初めには最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が完成します。

公式文書は漢文で書かれましたが、和歌など私的な文章は平仮名で書かれるようになっていきました。さらにこの時代、紀貫之は『古今和歌集』の「仮名序」に歌論を仮名で書き、後年『土佐日記』では仮名による旅日記を書き、10世紀末に全盛を迎える王朝仮名文学の開拓者となりました。

国風文化の確立、つまり日本人が他所の国の文字である漢字の文化から一歩抜け出し、自分たちの風土に合った物語を伝える手段として、自分の文字、文学、文化を獲得した瞬間です。

・文化の発展

平仮名の開発により、それまで借りものでしかなかった言葉を、自分の言葉で表現できるようになった、と言えるでしょう。自分の言葉を手に入れて、当時の人々は和歌として自分の心を表現しました。

「仮名序」冒頭の一文

「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事業(ことわざ)、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。(和歌は、人の心をもとにして、いろいろな言葉になった(ものである)。世の中の人は、関わり合う色々な事がたくさんあるので、心に思うことを、見るもの聞くものに託して、言葉に表わしているのである。)」

です。和歌は日本人の心に心地よく、理解しやすく、スッと入り込む表現だったのだと思われます。

その後、和歌を元にして、文学の世界は飛躍的に発達します。『源氏物語』の登場です。『源氏物語』がその後の文学界に与えた影響は凄まじく、多くの模倣作品が生まれました。さらには、文学作品だけではなく美術工芸をはじめ、茶道、香道、芸能などさまざまな世界に波及していきました。和歌が文化の源流と称される所以です。

・伝統文化に流れるもの

はじめ中国の大陸文化である漢字を借りていた日本人が、平仮名を生み出すことで、文化を発展させていきました。平仮名は、単に漢字を簡略化したものではなく、日本の風土や環境に適合した日本の人々の心に寄り添うものだったからこそ、このように広く様々な文化に融合したのではないかと思います。ここに文化的価値観を共有するグループが発生し、「日本人らしさ」へとつながっていくのです。

これまで見てきたように、和歌は日本人にとって、しっくりとくるものでした。しかし今では、和歌を含む日本の伝統文化に関して、「日本人らしさ」を感じるものの、どこか遠く難しい世界の話のように感じる方が多いかと思います。しかし文化的背景を共有するグループにおいて、固有の価値観を裏付けるもの、自分のアイデンティティーを想起させるもの、それが文化です。遠いはずはないのです。

伝統文化も多岐に渡りますが、根底に流れる「日本人らしい」意識、価値観に目を向け、身近なものとして和歌をはじめとする伝統文化を見ることが出来るように、と思います。その上で、伝統文化が心のよりどころ、「ふるさと」となれればと願います。


この記事を書いた人

野村渚

学芸課長 第24代当主為任・布美子の次女久実子の次女。
この4月から勤務し始めたひよっ子。
子供の頃からの耳年増で、なんとか日々をしのいでいます。

文庫だよりLetter From Shiguretei Library