文庫だより冷泉貴実子
やまと歌がたり

冷泉貴実子
やまと歌がたり
第四歌

聞き書き・田中康嗣

梅が枝に 鳴きてうつろふ 鶯の 羽白妙に 淡雪ぞ降る
詠み人知らず

この歌は、素晴らしい「大嘘?」のお話しです。まことに日本の和歌らしい、綺麗な綺麗な一首ですが、その全部が、絵空事だと思います。

梅と鶯と淡雪(あわゆき)。日本の早春を象徴する言葉が並んでいますね。梅のほのかな香りが漂い、鶯の鳴き声が奥山から届き、庭に淡雪が舞う。
まず梅と言えば、それこそ早春の識し。花の兄とも呼ばれる梅は一年で最初に花を咲かせる樹です。だから花のお兄さん。一年の最後に花をつける菊が花の弟ですね。古今和歌集の巻第一、春歌上には梅の花を詠んだ和歌が17首も並んでいます。桜の歌はその後に出てきます。春の初めの美しさといえば、梅の花、梅の香。日本に住み暮らす人々なら誰もが共有できるはずの春の日本美です。
次に鶯。藤原定家の自薦歌集『拾遺愚草』の中に、詠花鳥和歌という月次(つきなみ)の歌があります。定家さんが、一年月ごとの花と鳥を詠んだものですが、その中でも正月つまり一月の鳥は鶯ですね。「春きては幾夜もすぎぬ朝戸出に鶯きゐる窓のむら竹(春が来てまだ幾夜も過ぎていない朝、戸を開けて外に出ると窓辺の竹叢に鶯がきているな)」という歌が詠まれています。この詠花鳥和歌は、その後日本の文芸や絵画に次々と展開されて、日本の十二ヶ月を象徴する綺麗の基準にもなっています。春は鶯。日本美の型であります。
そして淡雪。これもまた日本の春の識しです。白雪は冬の、淡雪は春の表象です。淡いというのは泡にも通じるかすかで儚い存在。泡のようにすぐに消えてしまう雪ですね。源氏物語にも「はかなくてうはの空にぞ消えぬべき風にたゞよふ春のあは雪」という歌があります。淡雪つまり春の雪というのも曖昧な日本らしい表現ですね。西洋の人にはこの春の雪というのが理解できない、という話しを聞いたことがあります。雪は冬のもので、春に雪は降らない、と。けれど日本には、春が来たのにまだ袖に落ちて、すぐに消えてゆくかそけき雪があるのです。

つまるところこの歌には、日本の早春の美がひとまとまりになって見事に表現されています。梅の樹の枝から枝へ鳴きながら飛び交う鶯の羽に淡雪が降っている。本当に美しい日本の春です。けれど、考えてみれば、そんな(梅に鶯がとまりその羽に雪が降っている)こと、本当にあり得るでしょうか。あったとしてもそれはもう稀に見る珍事。多くの人が歌に詠んだり絵に描いたりするほど度々目にするような事象とは思えませんよね。つまり、歌人も絵師も、実際には見たことのない綺麗を表現している。もしかするとこの歌に詠まれたようなことは、実は誰も見たことがないのかも知れません。これは絵空事の「大嘘?」のお話しだと言ったのは、そういうことです。けれど、この一首を読んだ人々は、誰もが美しいな、綺麗だな、と思うことができる。それこそが、日本の文芸や美術のあるべき姿なのです。失ってはあまりに惜しい日本の文化のチカラなのだと思います。

歌舞伎を観に行くと黒御簾の中から大太鼓の音が「どん、どん、どん」と静かに聞こえてくるシーンがあります。太桴(ふとばち)にタンポと呼ばれる綿をつけた雪桴で打つ囃子だそうですが、この音が聞こえると見物の衆は皆「ああ、雪がしんしんと降っているのだなあ」と思うことができる。ある種の約束事であり、日本文化の型のひとつでもあります。太鼓の音で雪を感じるなんて不思議なことですが、そのおかげで老若男女すべての人が、ややこしい説明を受けることなしに共通の想いに浸ることができるのです。現実とは異なっていても、梅と鶯、そして淡雪に春の初めの美を感じるのと同じことだと思います。さて、こうした長い時間の中で培われてきた文化の力は、この先はいったいどうなっていくのでしょうね。(第四歌・了)


プロフィール

冷泉貴実子

事務局長 第24代当主為任・布美子の長女。
趣味は海外旅行と絵を描くこと。
陽気で活発な性格で、仕事に、遊びに、イベントにいつも大忙しです!

田中康嗣

特定非営利活動法人 和塾 代表理事。
大手広告代理店にて数々の広告やブランディングに携わった後、和の魅力に目覚め和塾を設立。
日本の伝統文化や芸術の発展的継承に寄与する様々な事業を行っています。詳しいプロフィールはこちらから。

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