文庫だより冷泉貴実子
やまと歌がたり

冷泉貴実子
やまと歌がたり
第三十歌

聞き書き・田中康嗣
写真・吉田亮人

おほぞらは 梅のにほひに 霞つつ くもりもはてぬ 春の夜の月
藤原定家

今ドキ「曖昧でぼんやり」は人気薄ですよね。何ごとにつけ白黒はっきりが求められる。うにゃウニャ言って何が言いたいのか良く分からない人より、敵と味方をスパッと切り分けるような人が人気者。月見や花見も現代人は皆、しっかり見えないと満足しません。ぼんやり見えるスーパームーンでは誰も盛り上がれない。勝ち負けがはっきりしない蹴鞠より勝者礼賛のサッカーに熱狂する・・・。それも良いのですが、日本人は本来、この「曖昧でぼんやり」がとても好きだった。定家さんの和歌を読みながら、そのことを考えてみようと思います。

詠まれているのは春の夜の景色。梅の香りがどこからともなく霞のように漂っていて、曇ってはいるのですが、曇りきってはいないぼんやりした空に月が出ています。朧月ですね。匂いに霞む、というのがとても面白い表現です。霞は視覚的な現象ですが、そこに匂いを詠み込んでいます。夜の梅の香りが目に見えるよう。定家さんらしい斬新さです。くもりも果てぬ、というのは、曇りきってはいないこれもまた曖昧でぼんやりした曇り空の様子。匂いの霞と薄曇りの空の向こうに春の月が朧に光っている。どこか妖しげで現実感のない心象風景のような美しい景色です。とても綺麗。そう思いませんか。

この歌は、つまるところ霞の歌。霞の美とそれを目にする陶然とした悦びが詠まれています。厳しい冬は空気が冴えていますから、山や里の景色は明瞭です。夜空の月も冴えている。そこに、待ち望んだ春が来ると、山や里の景色も夜空の月もぼんやり霞みはじめます。霞が立って春が来る。だから人々は霞をとても歓迎しました。初霞(ういがすみ)に春を知ったというわけです。春を司る女神の佐保姫も纏っているのは春霞の衣。後鳥羽院による「佐保姫の 霞の衣 ぬきをうすみ 花の錦を たちやかさねむ」という歌があります。歌といえば、さくらの歌にも「かすみかくもか においぞいずる」という歌詞が。これも美しく霞んだ桜花を愛でる春の歌ですね。もっともこの頃は、春が来ると霞ではなく黄砂の方が話題ですけれど。

さてその霞というのは、どちらかというと遠景になります。遠山の稜線などをぼんやりと隠すのが霞です。そして霞は広く全体に広がります。この歌のように大空全体が霞みます。結果として霞は、さまざまなものを少しぼんやりさせるのです。昔の日本人はそれをとても慈しみました。すっきり見えていたものをちょっと曖昧にする。全体を見渡せていたのに一部を隠してしまう。見えないところに美を感じる。見えないところをひとりひとりの人間の感性が補って、美しさが無限に広がってゆく。つまり、はっきり見えるよりぼんやりの方が美しさは勝るのです。だから日本人は霞の価値をとても高く評価したのです。ぼんやり美にこそ値打ちがあった。
日本の絵画にも「すやり霞」という表現手法がありますね。絵のあちこちに霞を描き込んで、いろんなものごとを隠している。皆さんも絵巻物や屏風絵で目にしたことがあるでしょう。西洋画にはこんな手法はありません。キャンバスの中に描かれたものごとは全部明瞭です。はっきりしている。けれど、日本人なら分かりますよね。見えないところがおもしろい。見えないからこそ美しい。見えないことによって醸成される美しさがそこにあるのですから。

だから、霞の値打ちは、今もっと見直されても良いのでは、と思います。曖昧でぼんやりの美しさ。鮮明ではない朦朧とした綺麗。ファジーの効能。あやふやで朧気な存在のありがたさ。人々が、判然としないことの価値を思い出せば、世の中はもう少し安らかになると思いませんか。人間社会というのは、何もかもがそんなに明白明瞭なものではないですよね。白でも黒でもない、内でも外でもない、曖昧な領域がたくさんある。でも、そんな曖昧なこともまた美しいな、と考えることが出来れば、人々の日々の暮らしの心地よさも、世界の平和も、今より少し広がっていくように思うのです。(第30歌・了)

藤原定家[ふじわらていか・ふじわらのさだいえ]
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人。藤原北家御子左流、正三位・藤原俊成の二男。母は藤原親忠女(美福門院加賀)。最終官位は正二位・権中納言。京極殿または京極中納言と呼ばれた。応保二年(1162)、藤原俊成(当時の名は顕広)四十九歳の時の子として生れる。養和元年(1181)、二十歳の時、「初学百首」を詠む。文治二年(1186)には家司として九条家に仕え、良経・慈円ら九条家の歌人らと交流。正治二年(1200)、後鳥羽院の院初度百首に詠進。建仁元年(1201)にはその後鳥羽院により新古今和歌集の撰者に任命される。安貞元年(1227)、正二位に叙され、貞永元年(1232)、七十一歳で権中納言に就任。天福元年(1233)出家。法名は明静。嘉禎元年(1235)には、宇都宮頼綱の求めにより嵯峨中院山荘の障子色紙形を書く。これが小倉百人一首の原形となったと見られる。仁治二年(1241)、八十歳で薨去した。2つの勅撰和歌集『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』を撰進したほか、秀歌撰に『定家八代抄』がある。家集には、六家集のひとつに数えられる『拾遺愚草』が、歌論書には『毎月抄』『近代秀歌』『詠歌大概』がある。他に、18歳から74歳までの56年にわたる日記『明月記』を残している。
千載集初出、勅撰入集四百六十七首。続後撰集・新後撰集では最多入集歌人。勅撰二十一代集を通じ、最も多くの歌を入集している歌人。
見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやの秋の夕暮(新古363)
駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮(新古671)
こぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くやもしほの身もこがれつつ(新勅撰849)
春の夜のゆめのうき橋とだえして峰にわかるる横雲のそら(新古38)



プロフィール

冷泉貴実子

事務局長 第24代当主為任・布美子の長女。
趣味は海外旅行と絵を描くこと。
陽気で活発な性格で、仕事に、遊びに、イベントにいつも大忙しです!

田中康嗣(たなかこうじ)

特定非営利活動法人 和塾 理事長。
大手広告代理店にて数々の広告やブランディングに携わった後、和の魅力に目覚め和塾を設立。
日本の伝統文化や芸術の発展的継承に寄与する様々な事業を行っています。詳しいプロフィールはこちらから。

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