もの思へば 沢の蛍も わが身より あくがれ出る 玉かとぞ見る
和泉式部
日本人は虫を愛でる民です。小さな虫が大好き。春には蝶や蜂が、夏になると蝉や蜻蛉や玉虫が、秋には鈴虫や松虫、蟋蟀(コオロギ)が、日本の老若男女を楽しませてくれます。物語や和歌の中にもたくさんの小さな生き物が登場しています。何年か前には、「虫めづる日本の人々」と題した展覧会も開催されていました(2023年サントリー美術館)。重要文化財に指定されている伊藤若冲の「菜蟲譜」や鈴木其一の「蝶に芍薬図 」前島宗祐の「茄子に虫図 」住吉如慶の「きりぎりす絵巻 」、鎌倉時代につくられた「蝶蒔絵香合」なども展示されていました。これほど虫を愛する民族は世界的にも珍しいのではないかと思います。
日本人のこの虫好きを象徴する存在のひとつが、蛍です。古くは万葉集にも蛍は登場するようですし、源氏物語では第二十五帖がそのものずばりの「蛍」。几帳の中に蛍を放ち、その光で美女の姿を浮かび上がらせる、という場面が有名ですね。その後につづく贈答歌は「鳴く声も 聞こえぬ虫の 思ひだに 人の消つには 消ゆるものかは」と「声はせで 身のみ焦がす 蛍こそ 言ふよりまさる 思ひなるらめ」です。勅撰集などにも夏の部立や恋の部にたくさんの蛍の歌が採られています。古今和歌集には「明けたてば 蟬のをりはへ なき暮らし 夜は蛍の 燃えこそわたれ」や「夕されば 蛍よりけにもゆれども ひかり見ねばや 人のつれなき」が、後撰和歌集には「つつめども かくれぬものは 夏虫の 身よりあまれる 思ひなりけり」、後拾遺和歌集には「沢水に 空なる星の うつるかと 見ゆるは夜半の 蛍なりけり」、詞花和歌集には「鳴く声も 聞こえぬものゝ かなしきは 忍びに燃ゆる 蛍なりけり」、千載和歌集には「恋すれば 燃ゆるほたるも 鳴く蝉も 我が身のほかの 物とやは見る」と、本当にたくさん。日本人は蛍が大好きです。
私にとって蛍といえば、前にも話しましたが、父が持ち帰ってくる蛍の想い出が何よりのもの。外でお酒をいただいて気分の良くなった父は、四条大橋あたりで蛍を買って、小さな虫籠に入れた数匹を子供たちへのお土産にしました。その蛍を子供たちは部屋に吊られた蚊帳の中に放って楽しんだものです。父が幾らほどでその蛍を購入していたのかは分かりませんが、今思うと、そもそも往来で蛍を販売するなどということが成立するのは日本だけなんじゃないかと思います。欧米では昆虫はあくまで観察、蒐集し研究対象とするもので、日本のように季節を象徴する愛すべき対象ではなかったようですね。今でも、日本中に蛍を養殖する業者がたくさんあり、各地で開催される蛍の観賞会などを支えているとのこと。事ほど左様に、蛍は私たち日本人にとって特別な存在だったのです。
その特別感を支えることのひとつに、蛍を魂に見立てる文化があります。私たち現代人は、自分の内にある霊魂が自分の身体を離れて彷徨い出るような感覚はあまり持っていませんが、昔の日本人は、そうした思いを抱くことが多かった。源氏物語には、六条御息所の生き霊が夕顔を呪詛する話しがあります。御息所の生き霊はその後、葵の上をも苦しめますよね。自分の霊魂が自分の肉体を離れ、本人の意思とは関係なく動いてゆく。点滅を繰り返しながら飛び回る蛍を、昔の日本人は、彷徨い出た自分の魂だと考えたのです。和泉式部によるこの歌も蛍を彷徨い出た魂と詠む一首。「後拾遺和歌集」の詞書には、「男にわすられて侍けるころ貴布祢にまいりて、みたらし河に蛍のとひ侍けるをみてよめる」とあります。恋心が極まって、貴船神社に赴き、奥宮の近くを流れる川で飛び交う蛍を目にして詠んだ歌、とある。自分ではほとんど制御できなくなった強い思いが自分の身体を離れ冷たい光を発しながら不規則に飛び回っている。蛍が儚い思いを抱いた自らの分身のよう。日本人は、虫たちと人間の境界線が曖昧だったのですね。人間、つまり自分自身も、虫たちをも含めた生きとし生けるものの中にあった。他の生き物と人間をことさらに峻別しないこうした考え方は、今の時代むしろ新しいのではないですか。さまざまに思いの広がる和歌ですね。(第32歌・了)
和泉式部[いずみしきぶ]
平生年は天延二年(974)、貞元元年(976)など諸説ある。父は越前守大江雅致、母は越中守平保衡女。父の官名から「式部」、また夫橘道貞の任国和泉から「和泉式部」と呼ばれた。平安時代中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。鎌倉期に成立した『中古歌仙三十六人伝』によれば、母は昌子内親王付きの女房であり、娘の式部も太皇太后宮・昌子内親王付の女童だったらしい。父の雅致も時期は不明ながら太皇太后大進を務め、夫になる橘道貞も太皇太后権大進を務めた。これらが通説だが、同資料以外に昌子内親王への出仕について言及した資料は存在せず確証はない。道貞のもとを離れた後、弾正宮為尊親王と関係を結ぶが、親王は二十六歳で夭折。翌年、故宮の同母弟である敦道親王と恋に落ちた。この頃から親王邸に入るまでの経緯を綴ったのが『和泉式部日記』である。しかし敦道親王も二十七歳の若さで亡くなり、寛弘六年頃から一条天皇の中宮藤原彰子のもとに出仕を始めた。彰子周辺にはこの頃紫式部・伊勢大輔・赤染衛門などがいた。その後、藤原道長の家司藤原保昌と再婚。家集は数種伝わり『和泉式部集』、『和泉式部続集』のほか「宸翰本」「松井本」などと呼ばれる略本(秀歌集)がある。勅撰二十一代集に二百四十五首を入集。名実共に王朝時代随一の女流歌人である。
春霞たつやおそきと山川の岩間をくくる音きこゆなり(後拾遺13)
人もがな見せも聞かせも萩の花さく夕かげのひぐらしの声(千載247)
野辺みれば尾花がもとの思ひ草かれゆく冬になりぞしにける(新古624)
黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき(後拾遺755)
枕だに知らねば言はじ見しままに君語るなよ春の夜の夢(新古1160)
プロフィール
冷泉貴実子
事務局長 第24代当主為任・布美子の長女。
趣味は海外旅行と絵を描くこと。
陽気で活発な性格で、仕事に、遊びに、イベントにいつも大忙しです!
田中康嗣(たなかこうじ)
特定非営利活動法人 和塾 理事長。
大手広告代理店にて数々の広告やブランディングに携わった後、和の魅力に目覚め和塾を設立。
日本の伝統文化や芸術の発展的継承に寄与する様々な事業を行っています。詳しいプロフィールはこちらから。




















































































