文庫だより冷泉貴実子
やまと歌がたり

冷泉貴実子
やまと歌がたり
第三十五歌

聞き書き・田中康嗣
写真・吉田亮人

秋浅き 日影に夏は 残れども 暮るるまがきは 荻の上風
慈鎮和尚

秋の訪れを人々が共感し共有できる出来事のひとつが、「暮る」です。秋になると日が暮れるのが早くなる。日が短くなって、夕べが早くやってきて、あっという間に夜になる。それが秋のしるしなのです。「秋の日は釣瓶落とし」という諺もありますよね。秋になると、急に日が暮れるのが早くなり、太陽が沈むとあっという間に暗くなる。
これは、気象学や天文学的にも証明されているようです。春分の頃は、一年でももっとも日が短くなるスピードが速く、一日あたり2〜3分ずつ日没時間が早まるそう。またこの頃の太陽は地平線に対して垂直に近い角度で沈んでいくので、日没後はすぐに暗くなるのです。(夏は太陽が斜めに沈んでいくので、薄明、薄暮の時間が長くなります)
気象学も天文学もなかった昔から、秋になると日暮れを強く感じるのが人の常。この和歌にある「暮るる」という言葉は、秋の訪れを知らせるキーワードというわけです。

もうひとつ大事なのが「荻の上風」。荻は、水辺や河川敷に群生するイネ科ススキ属の多年草。秋になると小さな花の集まりである穂をつけます。荻はススキに似ているのですが、その穂は、ススキより柔らかく、ふんわりとした見た目になります。風が吹くとふわふわ揺れる。だからなのか、荻には上風が添うことが多い。荻の上風です。風に秋を感じるというのは、古今集にある「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」と同じですね。
秋を象徴する植物にはもうひとつ萩があります。くさかんむりに秋と書いて萩。萩は細い枝が地面からたくさん群がって生え(叢生)、しだれるように生い茂る低木です。秋になると地面に近い下葉に露が置かれることがある。ですから、萩に添うのは下露です。萩の下露。万葉集にも「このころの 暁露(あかときつゆ)に 我がやどの 萩の下葉は 色付きにけり」という歌があります。
荻の上風と萩の下露。いずれも秋を象徴する日本美として頻繁に和歌に詠まれます。和漢朗詠集にも採られている藤原義孝の「秋はなほ 夕まぐれこそ ただならね 荻の上風 萩の下露」という歌が有名です。

この歌には、この「暮るる」と「荻の上風」の間に「まがき」があります。まがきはつまり垣根のことです。垣根というのは、最近ほとんど目にすることがなくなりましたね。ブロック塀ばかり。昔は、日本中どこの家でも垣根があったものです。この垣根というのは、とても日本的で不思議なものです。それは、内と外を区分ける境界ではあるのですが、素材が植物ですから、区切られてはいるのですが風も光も行き来します。不連続なようで連続している。隣家との間に垣があっても、向こうが見えないようで実際は見えますよね。垣間見、という言葉もあります。垣根の隙間からのぞき見ること。源氏物語でも光源氏が若紫の君を小柴垣の向こうから垣間見るシーンがありますね。
垣は、植えられた植物も内外どちらからも愛でることができます。垣に梅があれば、内に暮らす人も外を行く人も春になれば梅花を楽しんだ。境界のようでいて実はとても曖昧なのが日本の垣根なのです。こうした曖昧でどっちつかずなものが昔の日本にはたくさんあった。けれど、今の世の中、曖昧は嫌われますね・・・。白黒はっきりしないとよろしくない、と。だから、垣根は姿を消し、ブロック塀がつづく景色が広がっています。光源氏の垣間見も美しく微笑ましい物語なのですが、今の世の中では、許されないことになるのでしょうね。

日が暮れて風が荻の穂を揺らし、秋が始まる。けれど、昼間の陽光にはまだ暑い夏が残っています。この和歌も、夏を残しながら秋になる、いささか曖昧でどっちつかずな季節の変わり目を愛でる、とても日本的な秀歌です。(第35歌・了)

慈鎮和尚[じちんかしょう]
通称・吉水僧正(よしみずそうじょう)、『小倉百人一首』では前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん)。久寿2年(1155)に摂関・藤原忠通(ただみち)の子として生まれる。二歳で母を、十歳で父を失う。永万元年(1165)11歳で延暦寺の青蓮院門跡に入り、第二代門主・覚快法親王(かくかいほっしんのう)に従う。仁安二年(1167)、天台座主明雲を戒師として得度。嘉応二年(1170)、一身阿闍梨に補せられ、兄兼実の推挙により法眼に叙せられる。安元二年(1176)には比叡山の無動寺で千日入堂を果す。養和元年(1181)法印に叙せられ、名を「慈円」と改める。歌壇でも活躍し、良経を後援して九条家歌壇の中心的歌人として多くの歌会・歌合に参加。文治四年(1188)には西行勧進の「二見浦百首」に出詠。建久三年(1192)、天台座主に就任し、同時に権僧正に叙せられる。建久九年(1198)、譲位した後鳥羽天皇は院政を始め、建仁元年(1201)、慈円は再び座主に補せられた。この前後から、院主催の歌会や歌合に頻繁に出席するように。同年六月、千五百番歌合に出詠。七月には後鳥羽院の和歌所寄人となる。同三年(1203)三月、大僧正に任ぜられたが、同年六月にはこの職も辞した。以後、「前大僧正」の称で呼ばれることになる。嘉禄元年(1225)、近江国小島坊にて入寂。嘉禎三年(1237)、慈鎮和尚の諡号を賜わる。著書に『愚管抄』(承久二年頃の成立)ほかがある。家集には『拾玉集』がある。千載集初出。勅撰入集二百六十九首。新古今集には九十二首を採られ、西行に次ぐ第二位の入集数。
そむれども散らぬたもとに時雨きて猶色ふかき神無月かな(拾玉集)
みな人の知りがほにして知らぬかなかならず死ぬるならひありとは(新古832)
旅の世にまた旅寝して草まくら夢のうちにも夢をみるかな(千載533)



プロフィール

冷泉貴実子

事務局長 第24代当主為任・布美子の長女。
趣味は海外旅行と絵を描くこと。
陽気で活発な性格で、仕事に、遊びに、イベントにいつも大忙しです!

田中康嗣(たなかこうじ)

特定非営利活動法人 和塾 理事長。
大手広告代理店にて数々の広告やブランディングに携わった後、和の魅力に目覚め和塾を設立。
日本の伝統文化や芸術の発展的継承に寄与する様々な事業を行っています。詳しいプロフィールはこちらから。

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